私の父は熱心なキリスト教徒です。
それで子供達は全員、生まれてすぐに洗礼(せんれい:信者になる儀式)を受けました。
もちろん私もです。
そして日曜日には必ず家族で教会に行くのが決まりでした。
お祈りも毎日欠かしません。
今でも実家に帰れば、食事のたびに一緒に祈ります。
教会ではキリストや聖人たちの、慈悲深い愛の話をたくさん学びます。
そして「与えなさい、愛しなさい。」と教えられたのです。
そんな環境で育った私は、いつしかマリア様みたいに優しく慈悲深い人になりたいと思うようになりました。
でも反面、そう思えば思うほど、そうでない自分に気づく毎日でした。
優しくしたい、優しくあろう、でもそんなに優しくできない、
その葛藤で何年過ごしたかわかりません。
とうとうある日私は諦めました。
私はマリア様にはなれないのだ、私はマリア様ではないから無理なのだ、とわかったからです。
とても悲しかったけれど、それは自分自身を取り戻す大きな転機でもありました。
それから自分が感じたまま話し、行動しました。
以前は考えてばかりいたのです。
驚いたことにその方が「愛を感じる」と言ってもらうようになりました。
自然体でいる方が、周りは愛情を感じるらしいのです。
他の誰かになる必要はない、ありのままの自分でいいってこういうことかと、不思議に納得したのでした。