私は生まれてすぐ、洗礼を受けました。
父は長崎の隠れキリシタンの末裔。
熱心なクリスチャンで、当然、子供達は全員
生まれてすぐに洗礼を受けたのです。
そういう意味で私の家は少し他の家庭とは違っていました。
日曜日には必ず家族全員で教会に行き、
毎晩、家族でお祈りの時間があり、
食前食後にもお祈りをする習慣がありました。
教会で教えられる話は
キリストやマリア様の美しいお話。
そして聖人と呼ばれる、心美しい人たちのお話でした。
与えなさい。
感謝しなさい。
許しなさい。
愛しなさい。
それがどんなに素晴らしいことなのか
どんなに人々に癒しをもたらすことなのか
こんこんと教わったのでありました。
小さい頃から私は、幸か不幸か
自分がその美しい慈愛に満ちた人々といかに違うかがよくわかっていました。
お姉ちゃんに腹を立てて喧嘩をするし
妹のお菓子をくすねるし
お母さんのお手伝いはしないし
全然与えたくないし感謝もできない。
許すこともできないし
人を愛しているかどうかなんてわからない・・・・。
私の幼少期はそういう自分を突きつけられる毎日だったのだと思います。
いつしか
自分は罪の子だと思うようになりました。
私はキリストやマリア様、他の聖人と呼ばれる人たちに憧れました。
私もああいう風になりたい。
清くて美しい人になりたい。
本当にそう思ったのです。
そうして
その慈愛の力でたくさんの人を癒したり導くことができたら
どんなに素敵なことだろう・・・・。
そう、思ったのです。
最近
私が本当の自分で生きるためには
自分の中の全然慈愛でなんかいられない
怒りや悲しみ、被害者意識にまみれた
真っ黒い自分を出すしかないのだとわかりました。
確かにそうです。
そこにある黒い自分を隠し続けても
それは偽りの自分でしかありません。
でもそのことを突きつけられた時
「私はマリア様のようになりたかったのに。」
と思わずつぶやいたのです。
私にとってずっと言えなかったこと。
あまりにおこがましくて
あまりに遠すぎて
それを望んでいるなんて口にもできなかったことだけど
ぽろっと出でしまったのです。
その私のつぶやきを聞いた友人には笑われました。
普通に考えたら、聖人になりたいと思っていたなんておかしいことかもしれません。
でも私にとっては笑い事ではないのです。
今までずっとなりたいと思っていた姿
人生をかけてどうやったらそこに行けるかと悩み学び続けた場所
それを手放す、というのは
私にとってはまるで死刑宣告のようなものだったからです。
ついに認める時が来た。
ついにあきらめる時が来た。
私はマリア様にはなれないのだと。
そのショックがまだ拭い去れず
痛みが生々しい時にまた
再び別の人にも言われました。
「あきらめないのはみっともない。
あきらめるとは明らかに見る。
自分の明らかな姿をみるということだ。
自分の明らかな姿をみれないことこそみっともない。」と。
その通りでしょう。
私はマリア様ではないのだから。
でも悲しかったのです。
とてもとても、悲しかったのです。
それほど
私はマリア様になりたかったのです。
☆
人の体には60兆個の細胞があります。
すべての細胞がそれぞれの違う機能・役割を持っています。
そして、それらすべてが個々の役割をこなすことが
体全体の調和につながります。
要するに、私は鼻毛だったのです。
「まつげになりたい」と願う鼻毛だったのです。
いままでずっと
まつげになるための修行をしてきたのです。
でもそれは、そもそも無理だと受け入れる時がきたようです。
まつげ修行をしていても
実際には全体の調和には繋がらないのです。
私は鼻毛として生まれたのだから
鼻毛の技をみがき
鼻毛としてまっとうに生きること
それが 全体の利益や調和につながるのですね。
「だからさっさとまつげになることを諦めて
鼻毛として生きる覚悟をしなさい。」
そういうメッセージが来ています。
そして
「まつげになれないことは罪ではない。」
というメッセージも同時に来ている気がしています。
自分がまつげになれないことは
ちょっとまだ悲しく辛いことです。
でもどこかしらホッとすることでもあります。
もうこれ以上、他のものになる努力はしなくていいのです。
私にあった仕事に集中することが
きっと喜ばれるし世界に利益をもたらすことになるのでしょう。
これを書きながら
また一つ、まつげをあきらめることができた気がします。
少しずつですが、鼻毛の覚悟をかためつつあります。
読んでくださってありがとうございました。