犠牲ですり減らした20代・・・
必死で頑張って職場で重宝されたけど
その時のことを思い出すといつも灰色だった。
それは自分が心を閉じたままの毎日で
「愛」の交流がなかったからだと思っていた。
今日ふと
別の扉が開いた。
私が精神的にボロボロになって退職した時
数々の部長クラスの先生方や
先輩、同僚、後輩たちから
新しい人生に向けて
応援とはなむけの言葉をいただいたことを思い出したのだ。
いままでずっと
その応援とはなむけの言葉は
私の犠牲の上に成り立っているものだと思っていた。
私が差し出した、にがい犠牲によって得たもの・・・
だからその応援やはなむけの言葉も
対して価値があるとは思っていなかった。
大切に扱っていなかった。
間違ったあり方で得たものだったから。
でも不意に今朝
あの応援やはなむけの言葉の中に
たくさんの愛と思いやりが見えてきた。
そう言えば彼らは皆
私を快く送り出してくれた。
送別会にもみんながきてくれて
でも私は、そんなエネルギーを断ち切るように
早々に送別会の席を立ったのを思い出す。
そして二度と、彼らと連絡をとりたいとは思わなかった。
私が大切にしてこなかったもの。
きちんと受け取らなかったもの。
その中にたくさんの方々の思いやりが
紛れもなくあったと、なぜか急に腑に落ちた。
私、応援されてたんだな・・・
私、愛されてたんだな・・・
深いところで心が満ちてきた。
そしてそれが腑に落ちた瞬間
もう一つの扉が開いた。
愛がやってきていた。
ということは・・・?
出したものが返ってくる。
それがエネルギーの法則。
あの時、たくさんの人から愛がやってきていた。
ということは
私の灰色の20代の中で
私もたくさん愛を差し出していたということか!
急にそれが見えてきた。
犠牲ばかりしてしまって苦しかったという思いが私の心を占めていたけど
私もちゃんと愛を差し出していたのだ。
犠牲の中にも、愛はあったのだ。
私は、たくさんの人が送ってくださった愛をちゃんと受け取らず
大切に扱ってこなかったが
それは自分が与えているものを
自分の愛を受け取らないのと同じことだったと気づいた。
確かに純度100%の愛ではなかったかもしれない。
自分を認めて欲しいというエゴもたくさんあった。
でもその中にもちゃんと愛はあったのだろう。
灰色だと思っていた20代
心が凍ってしまって愛の交流がないと思っていたけど
愛が感じられなくなっていただけで
ずっとそこに愛はあって・・・。
急に当時の記憶が、カラフルに変わった。
泣いたり笑ったり
寝不足でフラフラで仕事したり
人の命に携わる現場でチームの一員として働いたり
そういう全てが
キラキラと愛おしいものに変わった。
人は完璧ではない。
私も完璧ではない。
愛よりもエゴが目立つことがある。
思ったように美しくなんて生きられないことばかりだ。
でもどんな時も
必ず愛はそこにずっとあって
自分がそれに気付けるかどうか
本当にただ、それだけなのだと改めて思った。